映画「運び屋」を観て~年老いるとは?~

先日、クリント・イーストウッド主演・監督の「運び屋」を観てきました!

現在88歳のイーストウッドですが、彼が34歳のときに主演した「荒野の用心棒」翌年の「夕陽のガンマン」といった西部劇が、私を映画の世界に引き込むキッカケになりましたので、その当時のイーストウッドのカッコよさが忘れられません。彼は、これらの西部劇のはまり役からヒット作となる「ダーティーハリー」シリーズに主演することなったのです。

そんなカッコいいイーストウッドでしたが、さすがに昨今は監督業に専念することになっており、まさか、本人も88歳で自分が主演する映画を撮るとは思ってもいなかったと思います。

彼のインタビュー記事を見ましたが、この映画は「90歳の運び屋(麻薬などの違法薬物の)」として逮捕された男の記事を見たところから、映画化しようと!と思ったとのことです。当時の関係者からは話しを聞く事ができなかったとのことですが、イーストウッド本人が、この男を演じ、イーストウッドの本当の娘をこの男の娘として演じさせたところが、想像とはいえ、リアリティー感が半端なく伝わってきました。

★★★★☆・・・惜しい!4.5点

家庭をかえりみず、娘の結婚式にもでない、外ヅラだけはいい夫であり、父親。家族からは愛想を尽かされ、娘とも長年、話しもできない。そして、唯一大事にしていた農園も最後には借金の担保に銀行にとられてしまう。そんなダメダメ男が、人生の最後に仕事として選んだのが「運び屋」という仕事。それで、大金を稼ぎ、家族との修復を図ろうとするが・・・

若いときのイーストウッドはカッコよかったですが、88歳のイーストウッドは、かっこ悪い?というより、人生を達観した余裕を感じます。おそらく、自分がこの役を演じたのは、実話が基にはなっていますが、この役と、自分自身をオーバーラップさせることで、リアリティー感をより出そうと思ったからだと思います。

90歳で犯罪を犯す主人公、88歳で自分が主演の映画を撮るイーストウッドとも・・・この年齢になって、そんなことしなくてもいいじゃない?と思うと・・・でもそれは、お金のためじゃないんだよ、自分の居場所を確保し、家族にこれまでのことを償い、家族と一緒に過ごしたいだけなんだ!という叫びを感じます。

年老いたからこそ、分かること、気がつくことが多いような気がします。それをさりげなく、若い世代に伝えていく・・・彼らが決して後悔しないように。私の役目はそういうことなのかな?と思える作品でした。

映画「15時17分、パリ行き」を観て

昨年公開されたクリント・イーストウッド監督作品です。2015年8月21日に実際に、アムステルダム発パリ行きの高速鉄道タリス社内で起きた事件を映画化したものです。

★★★・・・何かしらの気付きは得られるが、それが、自分の考え、行動まで変えるような影響を与えることではない場合。

この映画は、無差別テロを企てようと、この電車に乗り込んだイスラム過激派の男と、勇敢にそれに立ち向かった3人のアメリカ人を主軸に展開しますが、ポイントは、この3人のアメリカ人、当時電車に居合わせた乗客がそのまま映画に出演しているということです。

すなわち素人!

また、電車内の事件はすぐに終わってしまうので、主役3人の幼少期からその事件に至るまでのことを映画の9割くらいを使って語っていることでしょう。

幼少期にどちらかと言えば、学校の問題児だった3人が、いきなりヒーローになるわけです。まして、映画の主役として出演するのです。

日本映画ではまず考えられない設定でしょうし、まず映画会社が、興行成績が見込めないとして、お金をださないような気がします。

これまでアカデミー賞監督賞を受賞したことのあるクリント・イーストウッド監督だから製作できた作品と思います。

ヒーローもの?が好きなアメリカらしい作品でしたが、ヒーローではなく、素人です。私は、問題を起こして、神学校に転校させられた1人が(列車内では、銃を持つテロリストに対して、真っ先に、しかも勇敢に、取り押さえにかかった青年)子供のときから、大人になっても、眠る前に唱える「フランチェスコの平和の祈り」の言葉が耳について離れませんでした。

私にとって、この言葉は「人を受け入れ、人生を積極的に生きなさい!」ということを伝える言葉として、心に残りました。

なので、ここでご紹介したいと思います。(映画は抜粋していたようです)

「フランチェスコの祈り」

主よ、私を平和の器とならせてください

憎しみがあるところに愛を、

争いがあるところに赦しを、

分裂があるところに一致を、

疑いのあるところに信仰を、

誤りがところに真理を、

絶望があるところに希望を、

闇あるところに光を、

悲しみがあるところに喜びを、

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

理解されるよりも理解する者に、

愛されるよりも愛する者に。

それは、わたしたちが自ら与えることによって受け、

許すことによって赦され、

自分の身体をささげて死ぬことによって

とこしえの命を得ることができるからです