先般映画を観た「愛がなんだ」に引き続いて角田光代さん原作小説のドラマ化です。
今回は、小さな子どもを持つ母親の子育てを巡る問題を深く掘り下げたものです。先般も書きましたが、角田さん原作のものは、そのリアリティー感が半端なくすごい!小さな子どもを持つ母親の悩み、叫びを、丹念に取材されて、小説にされたことがヒシヒシと伝わってきます。
最終話で、主人公を演じる柴咲コウさんが、裁判員裁判の裁判員に選ばれ、量刑を決める打ち合わせの席上で、最後に言われる言葉がグサグサ私に刺さりましたので、そのままここに引用します。
思いが強すぎるからこそ、間違った道に迷い込んでしまう。そこから助け出してくれる人さえいれば、自分を支えることができる・・・。手を差し伸べるということは、常に忘れてはならない・・・
ちなみに、被告人は、お風呂の湯船に、泣き止まない赤ちゃんを落とし、殺してしまった母親です・・・
以下・・・
私は、裁判の間中、被告人と自分を重ねてしまっていました。
同じ小さな子を持つ母親だからというだけではなくて、被告人と私には共通点がたくさんあったからです。
私は夫や、実の母親から精神的な暴力を受けていました。
そして、被告人と同じように子どもに危害を加えてしまったことがあります。
何のために夫が妻をわざわざ追い詰めるのか?そうおっしゃった方がいらっしゃいました。
私にもそれがわかりませんでした。
夫にも母にも、そんなに憎まれているのかとも思っていました。
でも、今日知りました。
相手を貶めて、傷つけて、支配して、そうすることで自分の腕から出て行かないようにする。そういう愛し方しかできない人がいる。
こんな簡単なことにどうして気が付かなかったのか?
それは、私が考えることを放棄していたからでした。
自分の幸せを人に決めてもらっていたからです。
誰かの価値観に従って生きるのは、とても楽だったから。
被告人が私と同じだったか?どうか?はわかりません。
でも、私はやっぱり被告人に同情します。
両親や夫、義理の父や母、医師や保健士、ほかの母親たち、一つボタンを掛け違えたばかりに、みんな声も届かないほど、遠い人たちに思えて・・・
助けを呼ぶ声がどうしても出なかった・・・
それは決して、見栄でも、プライドでもなかったと思います。
自分1人がどうしても、ダメで、愚かな母親に思えたんではないでしょうか?
そのことをもう誰にも指摘されたくなかったのではないでしょうか?
身近な人が誰一人気付かなかった・・・そのことは私は、同じ母親として、心から気の毒に思います。
理想の子育てをしてあげたいのに、できないのが辛い。
いつも笑っていて欲しいのに、泣かせてしまうのが苦しい。
小さなことの積重ねに蝕まれて、周りの人たちの正しい言葉に打ちのめされて、子どもに申し訳なくて、私がお母さんでごめんなさいと、自分を攻めてします。
愛しているから、間違ってしまう。
愛しているから、絶望するんです。
被告人に必要だったのは、そのことを理解してくれる、誰かの優しい視線と、共感だったと思います。
被告人が置かれた状況は辛いものでした。
でも、だからと言って、赤ん坊を湯船に落としていいはずがない。
同情できないのは、その一点のみです。