映画「三度目の殺人」を観て

是枝裕和監督、役所広司、福山雅治主演の映画「三度目の殺人」を観ました。日本では数々の賞を受賞している映画です。

★★★・・・何かしらの気付きは得られるが、それが、自分の考え、行動まで変えるような影響を与えることではない場合。

殺人の被疑者である役所広司が逮捕後、死刑判決が確定するまで、供述内容をくるくると覆す。それに翻弄されるが、次第と人間性の深いところまで読み解かなければ納得いかなくなる弁護士役を福山雅治が演じています。

結局、監督がこの映画で何を言いたかったのか?解釈は観客に委ねられ、考えさせられました。

被疑者は過去に一度、殺人事件を起こしているので、これで二度目になります。では、三度目とは?どういう意味か?

被疑者が裁判の途中で、最初は認めていた殺人を、実は自分はやっていないと主張したため、裁判官が検察側、弁護側を呼んで、密室で打ち合わせをする場面があります。

そこで、本来は最初に戻って、裁判をやり直さなければいけないのに、裁判官、弁護士、検察の「あうんの呼吸」で、審議継続、死刑確定判決までもっていってしまいます。正にこれが「三度目の殺人」ということではないでしょうか?

本来、神聖な判断で結論を出さなければならない「人の死」が、経済的合理性(時間短縮、金銭的な負担の軽減等)に優先され判断をくだされる。まして、それが、密室で、「あうんの呼吸」という理論理屈が全く存在しない世界でくだされる。それがいかに理不尽なことか・・・司法制度を批判すると同時に、そのような密室合議制が日本ではいかに多いか!ということを批判する作品ではないかと私は感じました。

私は、これまで是枝監督作品は何本か観ましたが、彼の作品は、日常を淡々と描きながら、そこから観客が何を感じるか?を観客に委ね、淡々とラストを迎えます。従って、???と思ったまま映画が終わり、その後、考えて、感じるといった映画が多いように思います。

映画にエンターテイメント性を求める私には、あまり好きではない作風ですが、なぜかしら過去を遡ると、日本映画ではこのような作風の作品は多いような気がします。

私としては、このような作品は一服の清涼剤のような感じで、続けて観るのはダメといったところでしょうか・・・