中小企業経営者の心のコンセルジュ~社会人編2~

銀行という場所は、組織ができており、新入社員の教育の仕方もキチッとしています。大阪支店という大店舗に配属になった私は、約1年間の間、いろいろな部署を経験させられました。小さな支店ではなかなかそのような経験ができないので、ラッキーとしか言いようがありません。

窓口後方業務(日々の伝票処理)→外国課(外国為替のディーリング)→法人営業課(法人向け融資)→財務相談課(預金集め)といった当時の銀行業務としては、主流の業務を経験させてもらいました。

それぞれの部署で、貴重な経験をしました。今思いますと、この1年間の経験があるからこそ、社会人としての基礎的な考え方、組織として自分はどのような立ち位置にあり、どう動くべきか(報告・連絡・相談)を学べたように思います。

特に、報告・連絡・相談といったことの重要性を痛感しました。学生時代は、先輩・後輩といった関係はありますが、上司・部下といった関係はありません。また、利益・損失といった考え方も学生時代にはなかったことです。

報告・連絡・相談といったことで、このようなことがありました。

私が財務相談課という部署で、公務員・教師などを引退される方の退職金を預金してもらおうと、毎日数十件の家を外訪していたときです。私が何回も訪問するので、イヤになった奥さまより「しつこい!」と言われ、怒られたことがあります。素直な私は「大変なことをしてしまった!」という気持ちになり、会社に帰って謝罪の手紙を書いていました。それを見つけた上司より「どうしたんだ?何があったんだ?」と聞かれ、事情を話したら、「丁寧で、文章力もある手紙は、確かに相手の心を打つこともある。ただ、仕事である以上、手紙という証拠になるようなものを書いて、渡してはいけない。中にはそれを悪用する人もいるからね」と諭されました。

たまたま上司が通りかかって、私が手紙を書いているのを見つけたので、指摘されましたが、見つけられなければ、そのまま手紙を投函していたかもしれません。

そうしたら、どうなったか?わかりませんが、手紙を書く前に、まずは、上司に起きたことを、そのまま報告・連絡・相談することだったと思います。自分だけの判断では、客観性がなく、判断を間違えることが多々あります。人間は経験則から判断することがほとんどなので、これは重要なことだと気付かされた出来事でした。

中小企業経営者の心のコンセルジュ~社会人編1~

急転直下の就職活動・・・なんとか銀行に就職することができました。私が就職した時期はまさにバブル時代の始まりの時期です。私の同期入社で、約100人がいます。

入社直後より約1ヶ月の研修期間の始まりです。その後、配属部署が発表になります。約1ヶ月の研修期間ではありますが、その期間中でも、各人の個性が発揮され、なんとなく大学時代を過ごしてきた私にとっては、刺激を受けることばかりでした。

また、大学時代と違い、学力ではなく、自分の個性をいかにアピールするかということの重要性を痛感しました。いわゆるプレゼンテーションです。また、グループディスカッションなど、自分の意見を明確に、わかりやすく、いかに相手に伝えるか、といった技術習得です。

そんな研修期間終了後、発表された私の最初の赴任先は大阪です。

生まれも、育ちも東京であり、親元を離れたことがない私にとって、大阪は未知の場所でした。京都が母の実家で、親戚も神戸にはいましたが、住んだことはありません。また、会社の寮に入るということで・・・築20年以上の建物で、共同風呂、寮母さんがいて、食事を作ってくれる・・・

未経験のことが多く、心配をしておりましたが、住んでみると、学生時代の先輩後輩のような付き合いをしてくれる人が多く、楽しい思いをすることが多かったです。

先日、TBS日曜劇場で、「集団左遷」というドラマが放映されていました。このドラマも、銀行が舞台で、「がんばりましょう!」が合言葉のように使われる、今どき珍しい熱血感あふれるドラマでしたが、まさに私が大阪で過ごした銀行員時代もそのような感じでした。

私の社会人としての基礎を作った大阪。様々な勉强をさせてもらいました。社会人としての基本を誰に、どこで学ぶか・・・最も重要なことです。この違いが後々、大きな違いになるのは間違いありません。

中小企業経営者の心のコンセルジュ~青年期編7~

大学生活をハッキリ目標を決めず送っていた私ですが、いよいよ大学3年生も後半になりますと、就職のことを考えるようになります。

そんなとき、中学の同級生で、当時よく一緒に遊んでいた友達が、法学部でもないのに、司法試験を受験すると言い出しました。

一方、入学の際の学部選択で、父と揉めた経緯はありますが、私は法学部です。父からは以前より法学部なら司法試験でも受験してはどうか?と言われていたことも頭の片隅にあったのでしょう・・・プラス友達の影響もあり、私も取り敢えず、司法試験受験塾に通ってみることにしました。

しかし、司法試験は、勉強開始半年くらいで、受かるような試験ではありません。結局、就職しないで、勉強を続けるということで、心に決め、両親に話し、周りの友達が就職活動をしている中、私は勉強を続けました。

ところが・・・急転直下、父親より試験浪人はダメだ!就職しろ!との話しに・・・

後から聞いたことですが、当時、父は長年勤めていた会社を辞めて、自分で起業したところだったそうです。そんな中、創業した会社がどうなるか?わからない中で、息子が浪人生活を送っていてはダメだと判断して、私に就職しろ!と言ったそうです。

そんな事情を知らない私は、当初反発しましたが、浪人生活では親のスネカジリ生活になるので、結局は抵抗できず、就職活動を開始することになったのです。

私の人生の転換期には、父が亡くなるまで常に父の意向が反映されています。私の意思だけで物事を決めても、最後には、父の意向に沿うような道に戻ってしまいます。単に私が意気地がないだけです。父に反発し、家を飛び出してでも、自分の道を貫く・・・そんなことも覚悟を決めればできたはずです。

でも、そうしなかったのが私。私という人間のキャラです。

父が存命中は、なんだかんだ言っても、その影響で全てが決まっていたように思います。父が亡くなったあとの激動の人生は当時は予想もしていませんでした。

中小企業経営者の心のコンセルジュ~青年期編6~

大学生活がスタートするわけですが、今振り返ってみると、人生の中で、大学生活は時間があり、大人でありながら、責任のない生活ができる唯一の時期のような気がします。

逆に言えば、そんな貴重な時間だと気が付かずに、無駄に過ごしてしまう人が多いのではないでしょうか?

私もその一人でした。

もったいない!

しかも、親からはアルバイトはするな!時間があったら、勉強しろ!と言われておりました。でも、時間があっても勉強しないのが大学生です。せいぜい試験前だけ。

では、わたしのような学生・・・あまりいないように思いますが・・・何をする?

人様々ですが、私は大半の時間は、音楽をやっていたような気がします。友達と作った音楽サークルの副代表者として、コンサートの企画とか、合宿の手配だとか、自分のバンドの音楽活動。

そして、余った時間は、テニスサークルにも一応所属していたので、ちょっと練習にでたりとか・・・

もっと突き詰めて音楽の練習をすればよかったと思います。

他人より秀でる何かを突き詰める。それが、自分への自信に繋がります。そんな「自信があること」を持っているだけで、違う。

恵まれた環境にいると、分からない自分。そこから抜け出し、いろいろな経験をすることがいかに重要か・・・今ならわかります。

中小企業経営者の心のコンセルジュ~青年期編5~

前回までは、高校時代の話しが中心でした、さていよいよ大学受験です!

と言いたいところですが、私が通っていた高校は大学までいける高校でしたので、受験勉強はありません。高校1年から3年までの成績を数字化して、希望学部を決め、学校に申請します。勿論、文系、理工系の区別はありますが、、それは既に高校3年のクラス分けのときに分かれています。

私は文系のクラスを選び、さらに文系の中から、希望学部を選びます。

その学部選びから、また亡き父の意向を強く受けることとなります。

私の父は、国立大学以外は大学ではないといった極端な考えを持っている人でした。まして、経済、商学部といった学部の勉強は将来的には何も役に立たない、法律だけが将来有益な学問であると言って、他のことは聞く耳を持たいない人でした。

私が大学に進学する当時、私の学校は文系志望の生徒であれば、その大半の生徒が経済学部に進学していました。なので、高校時代の成績も良くなければ、経済学部に進学できないといった状況でした。私の周りの友達も、成績が良い子は、経済学部に進学希望を出しますが、成績が良くない子は、それ以外の学部に行かざる負えないといった状況でした。

私も成績はそれなりに良い方でしたので、当然経済学部に希望を出そうと考えていました。

内部進学者の場合、将来、社会人になったときに有益な勉強なのか?そうでないか?といった観点で学部を選ぶのではなく、周りの友達と、成績で選ぶ人が大半です。成績が良いにもかかわらず、成績が良くなければいけない学部を蹴って、他の学部にいくという選択は、子供心に、カッコ悪さを感じるものです。

今思うと、カッコ悪さといった感情は根拠があるものではなく、自分の勝手な思い込みでしかない。ということは、よくわかります。

ただ、そのときはわからない。

父と大喧嘩をしましたが、最終的には「法学部に進学しなければ、学費を出さない」という言葉に私が折れて、私の同級生の大半が経済学部に進学しましたが、私は、法学部法律学科に進学することとなりました。

その後、何年かののちに、法学部法律学科が最も人気のある学部となるなんて、その頃は夢にも思いませんでした。

悔しいですが、法律の多少の知識、考え方は、役に立つと今更ながらに思います。

周りの環境に流されず、確固となる自分の道を歩む。周りに迷惑をかけることは良くないが、その選択において、周囲がどう思うか?(今回の場合はカッコ悪さ)といったことは関係ない。今の自分、将来の自分を冷静にイメージして、時には経験者、親の助言に耳を傾けることが必要だと感じます。

中小企業経営者の心のコンセルジュ~青年期編4~

高校時代はバンド活動以外に柔道をやっていました。中学受験で、スポーツを何もやっていなかった私は、体力に自信がなく、柔道部と言っても、柔道部B級というクラブ(同好会?)に入部しました。

B級とはいえ、柔道部です。このクラブの目的は、柔道部と違い、段位を取得することです。練習も週3回と少ないので、なんとか自分でもついていけるだろうと考えて入部しました。

入部当初は練習がきつく、また、2年生までは、同級の部員は私だけでしたので、しごかれました。なんとか2年生になって同級生が2人入ってきたので、多少、楽になりましたが、それでも3名です。

もともと、人気があるクラブでは無かったので、1年先輩の代も1名、その上が3名くらいでしたでしょうか?ただ、アットホーム感は半端なく、人が良い先輩ばかりで、しごかれたと言っても、単に私が体力不足だったからだと思います。

2年生の後半でしたでしょうか?なんとかクラブの目的である「初段」を取得した私は、3年生になるにあたり、クラブの主将を任されました。主将と言いましても、試合をするクラブではないので、後輩の面倒を見ながら、段位を取得させ、顧問の先生とうまくやるといったことが主な仕事です。

このクラブ活動は、何か、落ち着いた感、アットホーム感のある、ものでした。

自分もこれでいいのかな?と思ったこともなく、満足していたように思います。ただ、今思い返してみると、勿体なかったな~!という感じをめっちゃ感じます。

人間は環境に左右されます。自分の身を置く環境次第で、どれだけの能力が発揮されるか、開発されるかが決まります。どの場所を選ぶか?正解も不正解もありません。ただ、「自分の生きざま」として、自分が納得できるかだけです。納得できないなら、身の置きどころを変えるしかないように思います。

今の私から、高校生の自分に言ってあげたい言葉です。

中小企業経営者の心のコンセルジュ~青年期編3~

先般、このお題での投稿は、私の高校時代のバンド活動の話しでした。特にドラム。なんとかかんとかバンドでのドラマーの地位は獲得しましたが、男子校の私は、女子との付き合い、話すことさえも苦手でした。

高校2年と言えば、青春真っ只中、ましてバンドを演っている男子はモテるはず・・・同じバンド仲間でも、ギター、ボーカルを演っている同級生は超モテまくりでした。

私はと言えば・・・女の子の前では、うまく話せず、ダンマリ。友達の彼女に「あの暗い友達、なんとかしてくれる」と言われる始末です。

高校時代は、ズッとそんな感じでしたでしょうか・・・柔道、ドラム、バンド練習・・・今思い返すと、これに明け暮れていたような気がします。男子校でしたので、友達とどこかに出かけない限りは、周りは男子ばかり。もともと、女の子にモテたいからバンドを演るという動機ではなかったので、私としては、それで良かったと思います。(でも、今思うと、勿体無いですね!)ただ、時間を持て余していました。これが本当に勿体なかった。

人生にはいろいろな生き方があるように思います。

若いときは、若いなりに、多少無茶なことをするやんちゃな人が多いと思いますが、私のように、周りの環境に合わせるように生きてきた人が、全てを失くし、逆に自我に目覚めることもあります。

自我に目覚めたからこそ、自分がやりたいことを、とことん追求したいと思う。当然、そこまで考えずに生きていくことはできます。ただ、今度はそこまでやらないと、納得できない自分がいます。

年齢を重ねたから、引退、孫と遊ぶ・・・といった生活を否定するわけではありませんが、逆に、年をとったからこそ、できる仕事はありますし、若い人に伝えたいこと(変に説教じみないで)がでてきます。

高校時代の私に、今の私は、こう言いたいと思います。「時間だけは、戻ってこないから、今を精一杯生きろ!したいことをしろ!」これでいいはずです。

中小企業経営者の心のコンセルジュ~青年期編2~

青年期編1では、私が高校の運動部に入った話しをさせていただきました。

その運動部と同じように、私の高校時代を語る上で、大事な活動があります。それは、音楽活動です。

私の高校は1学年進級するたびに、クラス替えがあります。1年生のときは、運動部以外は目立った活動もせず、休み時間は教室で友達とトランプをするような高校生でした。

ところが、2年生に進学したとき、小、中学校で、仲が良かった友達が同じクラスになったのです。周りの環境の変化を受けやすい私は、彼がギターを弾くのに憧れて同じようにギターを弾き出したのです。そうすると、同じクラスでギター好きの同級生が集まって、バンドをやりたい!という大げさな話しになってきました。問題は、全員ギタリストということです。ピアノくらいはやっていた人がいますが、ベース、ドラム・・・ドラム経験者はまずいません。(今の時代はドラムを演っていた人はいるかもしれませんが、当時はまだいませんでした)

そんな話しが進んでいくと、どうなるか?決まっています。

ギター初心者が今から練習しても、これまでやってきた人よりすぐに上手くなることは無理なので、同じ初心者なら、ドラムをやってみるのもいいんじゃない~?とか言われ出し、文化祭に出よう~!ということに。

これまで、真面目路線で学校ではあまり目立たない存在だった私が、いきなりドラマーになって、文化祭に出てしまう!

当然、家にドラムセットもなく、文化祭までの日にちも残り少ない・・・他の楽器の子は自宅練習して、スタジオに来て合わせるのに、私だけぶっつけ本番で叩く・・・考える暇もなく、文化祭は始まり、「超絶ヘタなドラマー」というレッテルを貼られてしまいます。

文化祭が終わると、しばらくイベント事はありません。その間に、他のメンバーがドラマー クビ! ということで動き出す気配を感じた私は、なんとか続けようと、練習に精を出しますが、披露する場所がありません。

どうやって自己アピールする?

最後の手段!ドラムセットを買って、家に置いてしまったのです。当時はまだ電子ドラムも価格が高い時期でしたので、そのまま叩けば大音響のする生ドラムセット・・・家で叩けるの?といったところですが、なんとかその上に毛布をかけて叩いておりました。

そんなこんなで、なんとかドラマーの地位を死守した私です。子供からちょっと成長した私がここにはいました。

人間、成長するには、少しの勇気が必要ということを初めて経験した出来事でした。


中小企業経営者の心のコンセルジュ~青年期編1~

幼少期編から高校入学をしましたので、青年期編ということで、書かせていただこうと思います。

私が入学した高校は、小学校から大学まである有名校。高校は男子校です。当時は1学年800名も生徒がおり、18クラスくらいあったと思います。

なので、高校からの外部入学生と、内部進学者との間には、入学当初は、学力の差、人間性の違い?というより、個性の違い?があったように思います。ただ、正に人間は環境に合わせる動物。高校生活を3年間一緒に過ごすと、学力の差とか、個性の違いなどはほとんど無くなってしまいます。

折角、大学までいける(落第しなければ・・・落第すると、最大、高校生活は6年間になります。1学年につき、2年まではダブれるので)高校に入学したので、中学までは不得意だった運動系のクラブに入ろう!と考えました。

当時の私は、体力はありませんでしたが、体格は良かったので、なぜかしら柔道部?という気がして、練習を見に行きました。今はもう無いようですが、当時の我々の高校には、柔道部が2つありました。柔道部と柔道部B級になります。なにが違うか?というと・・・柔道部は対外試合を主体にした活動を行うクラブ、柔道部B級は、段位を取得することを目的としたクラブということで、柔道部は毎日練習でしたが、柔道部B級は週3日練習ということでした。

中学の頃は、運動部には入らず、ひたすら受験勉強をしていた私は、体力にまったく自身が無かったので、柔道部B級に入って、様子を見ようと・・・だいぶいくじのない生徒でした。でも案の定、柔道部B級の練習でさえも、きつかった。なんとか3年間、やり通し、クラブの主将となり、初段は取得しました。

でも、このとき思いました・・・私の視野の狭さを・・・それは、世の中、こんなに運動も、勉強もできる子がいっぱいいるんだと・・・

私の中学では、勉強ができる子はまず、運動は出来ない子ばかりでした。有名私立高校に進学した生徒は、区立中学としては、格段に多い方と思いますが、確実に勉強組と運動組に分かれていました。

そんな感覚で高校に入学しましたので、勉強、運動が両方とも格段にできる子にはびっくりしました。特に、内部進学生の子たちにそんな子が多い!天才か!?と思える子がなんでこんなにたくさんいるの?

そんな思いがありながら、また、大学受験もない環境にいながら、おそらく、時間的、精神的な余裕がたくさんある環境だったと思いますが、今、思うに、もっと自分が我を忘れるくらい熱中できることを見つかられなかったのか・・・(後に話す楽器、バンド活動はありましたが)

何事にもまだ中途半端な私がいたんだな~と考えてしまいます。

人生において、時間的、精神的に余裕がある時期は学生時代以外にはほとんどありません。自分では分かりませんが、この時期だからこそ、何かに追い込まれる経験をしておくべきなんでしょう。

中小企業経営者の心のコンセルジュ~幼少期編6~

さて、高校受験です。受験校の選択は、本人、親、学校の話し合いで決めます。これは今でも変わらないと思います。

これまで、自分の趣味以外のことは、親の言うなりに過ごしてきた私には、行きたい学校とか、将来やりたいこと、夢などは何もありませんでした。唯一は、辛い受験勉強はもうしたくない!ということでした。なので、私の希望する受験校は大学受験をもうしなくてもいい高校(すなわち高校から大学にエスカレーター式で進学できる高校)でした。

一人っ子である私に甘い母親は、それに同意しましたが、父はおそらく日本にいたら(父は商社マンでしたので、海外に一度行ったら、6ヶ月、1年は帰国しなような人でした)反対していたでしょう。ただ、黙って受験するわけにもいかないので、なんとか連絡を取ろうとしましたが、居場所が分からない!仕方なく、私、母親、学校の担任の先生と相談して、高校、大学とエスカレーター式で行ける高校を第一志望に、大学受験のある高校を何校か選んで、受験しました。

私の父は、昔の人で、国立大学以外は学校と思ってない人でした。国立大学と言っても、東大、京大等の超一流大学だけが大学と認め、それ以外の大学はダメ大学と考えるような人です。従って、大学までそのまま行けるエスカレーター式の高校に入ってしまっては、父が大学と認める学校には行かないと宣言するようなものです。(厳密には、エスカレーター式の大学には進学しないで、外部大学を受験するという方法もありますが、なかなか難しい)私が第一志望に決めた学校への受験には反対するに決まってます。

ということで・・・父には受験校を言わないまま、高校受験に望み、見事、第一志望の学校に入学することができました!

ところが、受験が終わって、入学までの春休み・・・事件は起こったのです。

父が1年振りくらいに日本に帰国し、家に帰ってきました。入学する高校のことを報告し、「よく頑張った、おめでとう!」と言われることを期待していましたが、少し予想していた通り、「なんでそんな学校を選んで受験したんだ!そんな学校なんて入学してもしょうがない!」とのこと・・・散々の言われようです。私にしてみれば、海外で連絡がつかない父でしたので、しょうがない!としか言いようがありません。

なんとか母がとりなして、その学校に入学することができましたが、一時は授業料も払わないといった状況でした。

その時は、考えませんでしたが、今思うに・・・

高校、大学です。義務教育ではありません。親に授業料を出してもらって学校に行けることは幸せなことです。感謝するしかありません。また、自分のやりたいことがハッキリと決まっていない段階では、最終的に決める段階で、選択肢が広い方が良いはずです。

もう受験勉強はしたくないという理由だけで、エスカレーター式の学校に行くことは、自分の可能性を狭めることになるだけだと・・・(もちろん、それ以外に志望動機があれば別ですが)

従って、父が怒った理由が今更ながらに理解できたということです。

昨今、会社でも年長者、上司の方が部下に気を使うという逆転現象が起こっているようですが、人生経験の長さは侮れません。先輩、上司の言葉には、素直に耳を傾けるべきと私は考えます。